CIAの歴史
1941年7月11日
フランクリン D ルーズベルト大統領が、第一次世界大戦中に名誉勲章(アメリカ軍の勲章において最高位の勲章)を受賞した著名な弁護士であるウィリアム J ドノバン氏を「情報のコーディネーター」に任命した。
1942年6月13日
戦略的サービスオフィス(OSS)が情報のコーディネーターオフィスに取って代わった。ウィリアム J ドノバン氏が長官に任命された。
1944年6月
OSSとイギリスのジェドバラチームと作戦部隊が、D−Day侵攻作戦(ノルマンディー上陸作戦)へのドイツ軍の対応を妨害するため破壊作戦を行った。連合軍の大規模な策略がヒットラーを混乱させた。
1945年9月27日
OSSのスパイであったヴァージニア ホールさん(Virginia Hall)が、軍隊より殊勲十字章(主にアメリカ陸軍の軍人に対して授与される勲章で陸軍が受けることができる勲章では名誉勲章に次ぐ高位の勲章)を、彼女の戦時中の作戦での特別な英雄的活躍により授与された。
1945年10月1日
OSSは廃止された。部署は政府のあちこちに移行した。研究と分析の部署は国務省へ、諜報と対諜報部は陸軍省(1789年から1947年まで存続)へ移行した。諜報関係部はそこで戦略サービスユニット(SSU)と改名された。
1946年1月22日
ハリー トルーマン大統領が中央情報グループ(CIG)と中央情報長官(DCI)の役職を創設した。
1946年1月23日
シドニー W ソース海軍少将が初代中央情報長官に任命された。
1946年2月15日
中央情報グループの中央報告スタッフが、最初の、現在起きている事態の分析である「日々の要約」を大統領のために作成した。
1946年6月10日
ホイット S ヴァンデンベルグ中将が中央情報長官に任命された、
1946年7月23日
初めて、中央情報グループがソビエト社会主義共和国連邦の分析をする。
1947年5月1日
ロスコエ H ハイレンコエッター氏が中央情報長官に任命された。
1947年7月26日
1947年の国家安全法が、トルーマン大統領によって署名された。法令はCIAを創設した。また、法令は国家セキュリティカウンシル(NSC)と国防事務オフィスとアメリカ空軍を形成した。
1947年9月18日
CIAが正式に設立され、中央情報グループに取って代わった。
1947年12月17日
NSCがCIAに秘密作戦を遂行することを認可した。
1948年9月1日
CIAが、秘密作戦を指揮するために、フランク G ウィスナー氏の下での政策調整オフィスを設立した。
1948年12月16日
アメリカ連邦大陪審がアルジャー ヒス氏を偽証罪で告発した。(彼はソ連のスパイとして活動していた。)
1949年3月4日
FBIがジュディス コプロン氏を逮捕した。彼女は、ソ連の諜報のやり取りを解読するベノナ計画の成功の結果として、スパイ活動で告発した最初の人間となった。(ベノナ計画とは、アメリカとイギリスの情報機関が協力して極秘裏に行った、ソ連が第二次世界大戦後半に発信した暗号文を解読するプロジェクト。1980年まで続いた。)
1950年2月9日
アメリカ合衆国上院ジョセフ R マッカーサー議員が国務省で働いている共産主義者の疑いのある人の有名なリストを振り回した。これらの疑惑は、最近のアルジャー ヒス氏の偽証罪の確定とクラウス ファック氏の告白と相まって、政府内や国民の間に、アメリカ国内でのソ連のスパイ活動や破壊活動の恐怖を高めた。
1950年10月7日
ウォルター B スミス海軍少将が中央情報長官に任命された。
1952年11月4日
トルーマン大統領が国家安全局を創設した。ラルパ ケナイン海軍少将が長官に任命された。
1953年2月26日
アレン W ダラス氏が中央情報局長に任命された。
1953年8月19日
CIAが援助したクーデターがイランのモハメッド モザデク首相の政権を転覆させた。
1954年6月28日
CIAのクーデターが、グアテマラのヤコブ アルベンツ大統領の政権の転覆を主導した。
1954年11月25日
アイゼンハワー大統領が、高高度スパイ偵察機であるロッキードU−2飛行機の開発に賛成する。当時、人工衛星による地上の画像撮影も無く、敵の戦闘機やミサイルによる攻撃の及ばない高高度からの撮影は、画期的なものであった。
1955年5月11日
CIAの職員であるビル・ハーベイにより、ベルリントンネルの建設は成功した。GOLD作戦と呼ばれた。ベルリントンネルは、東ベルリンでのソ連の通信ケーブル線の盗聴を可能にした。しかし、イギリスの情報機関であるMI6内部のソ連のスパイであったジョージ・ブレイク氏により、ソ連は当初よりこの計画について知っていた。
1955年8月4日
アイゼンハワー大統領は、CIA本部ビルの建設のために、四千六百万円ドルの予算を認可した。
1956年4月21日
当時、CIAとMI6に知られることなく、ソ連の中心的な情報機関であるKGBは、当初よりベルリントンネル計画を知っていた。MI6内部のKGBの二重スパイであったジョージ・ブレイク氏は、最初の段階より、この秘密の作戦についてソ連に通告していた。しかし、ブレイク氏の正体をMI6に見破られないようにするため、KGBは1956年4月まで作戦の継続を許していた。KGBは、地下の電話線の故障を修理するという口実と推定される工事の最中に、「偶然にトンネルを発見した」。ブレイク氏をMI6に正体を見破られるなどの危険な目に合わせなかった。
1956年7月4日
最初のU−2飛行機によるソ連上空での作戦が遂行された。高高度からソ連の地上の写真を撮影した。
1957年12月4日
CIAとアメリカ空軍は、最初のアメリカのスパイ人工衛星であるコロナ(CORONA)写真偵察人工衛星の開発に着手した。
1958年5月17日
CIAのインドネシアにおける秘密作戦が、CIAの契約職員であるアレン・ポープ氏の操縦する飛行機が撃ち落され彼が捕らえられた後、発覚した。CIAが支援する反乱は崩壊した。
1959年11月3日
バージニア州のラングレイで、CIA本部ビルの建設が始まった。アイゼンハワー大統領が起工式の司会を務めた。
1960年5月1日
ソ連は、スヴェルドロフスク上空で、U−2スパイ飛行機を撃墜した。パイロットのフランシス・ゲイリイ氏は生き延びた。
1960年6月22日
アメリカ海軍が、最初の人工衛星の信号であるGRABシステムを軌道にのせることに成功した。
1960年8月18日
旧ソ連のチュクチ自治管区のシュミット岬空軍基地の写真が初めてコロナかディスカバラー14から撮影される。この基地は公に存在が認められていた。
1961年1月18日
国家写真解読センターNational Photographic Interpretation Center (NPIC)がCIAの指揮の下で創設される。最初の長官にアーサー・ルンダル氏が任命される。
1961年4月17日
CIAが背後についているキューバの亡命人軍隊が、カストロの独裁政治から国を解放するためピッグス湾に上陸した。しかし、解放の努力はすぐさまつぶされた。
1961年8月1日
アメリカ国防情報局が、国防長官の指揮の下に創設された。
1961年9月6日
CIAとアメリカ空軍は、情報衛星を管理するために、アメリカ国家偵察局を創設する設立許可書に署名した。ジョセフ・チャリック氏が局長に任命された。
1961年9月20日
新しいCIAの本部ビルが開館し、最初の職員がワシントン特別区のあちらこちらにある事務所から移動してきた。
1961年11月29日
ジョンA.マッコーン氏が中央情報長官に任命される。
1962年4月30日
CIA所有のA−12超音速偵察航空機が最初の公式の飛行をした。
1962年10月15日から28日
CIAのU−2飛行機がキューバ上空の飛行中に、アメリカ本土に到達可能なソ連製の核ミサイルを発見する。キューバミサイル危機が引き起こされた。
1963年8月5日
CIAは、科学技術部所長を設けた。アルバート・ウィーロン氏が初代所長に任命された。
1965年4月28日
ウィリアム・ラボーン中将が中央情報長官に任命された。
1966年6月30日
リチャードM.ヘルメス氏が中央情報長官に任命された。
1968年1月23日
北朝鮮が、アメリカ海軍の情報収集船であるプエブロ号を、情報信号の収集の任務中に捕らえた。
1968年7月
機関間の作戦であるフェニックスが始動した。ベトナムでの市民に対する作戦であり画期的に市民生活を発達させ支援するプログラムであった。目標は、地方でのベトコンの市民に対する支援をやめさせることであった。
1970年9月
テロリストやハイジャッカーについてのコンピューターファイルが作られるようになった。
1973年2月2日
ジェームス・シュレシンガー氏が中央情報長官に任命された。彼は、CIAのかつてない程度の職員と組織の変革を立ち上げた。作戦の専門官であるウィリアムE.コルビィ氏が、すぐに、CIAの過ちについての疑惑のリストを編集した(Family Jewels、金玉として知られている)
1973年9月4日
ウィリアムE.コルビィ氏が中央情報長官に任命された。
1974年8月1日
CIAはU−2プログラムをアメリカ空軍に移譲した。
1975年1月から2月
フォード大統領は、ロックンフェラー副大統領の監督下に、CIAの国内での活動を調査するための委員会を設立した。
1975年3月18日
メディアが、グラマー探索船のことを暴露した。この探索船は、1974年のCIAと海軍とアメリカの億万長者であったハワード・ヒューズ氏の共同の作戦で、太平洋の海深くに沈んだソ連の潜水艦を引き上げる作戦であった。(高価な費用が暴露され、また、ソ連に知られることにより妨害も引き起こされる)
1975年12月23日
CIA支局長であったリチャード・ウェルチ氏がギリシャのアテネの彼の家の外で殺された。ギリシャのテロリスト組織である「11月17日」が犯行を声明した。
1976年1月30日
ジョージH.W.ブッシュ氏が中央情報長官に任命された。
1976年2月18日
大統領令11905が情報機関コミュニティ内部での中央情報長官の権限を強化した。また、外国の指導者の暗殺を禁止した。
1976年3月1日
アメリカ上院情報問題特別委員会が創設される。
1976年4月23日
アメリカ上院チャーチ委員会が、フランク・チャーチ上院議員がCIAを「乱暴なはぐれ象」と糾弾したのとはほど遠く、CIAは常に行政の権威でもって活動していたと最終的な報告書を提出した。
1976年5月19日
アメリカ上院情報問題特別委員会が、上院議員ダニエルK.いのうえ氏の指揮の下に、国家の情報組織を監督することになった。
1976年6月
ジョージ・ブッシュ中央情報長官が、ソ連の戦略的な脅威を、AチームとBチームによる評価を競合させながら分析することを進めた。
1977年3月9日
スタンスフィールド・ターナー海軍大将が中央情報長官に任命された。
1977年7月14日
アメリカ下院が、エドワード・P・ボランド議員(民主党、マサチューセッツ州選出)が議長を務める情報機関に関する常任特別委員会を設置する。この委員会は上院の情報に関する委員会とは違ってCIAに関する唯一の監督権限を与えられているだけでなく、他のいくつかの下院の委員会とすべての他の情報機関への法的な監督の責任を共有する。
1980年1月28日
CIAの職員がイランから6人の外交官をひそかに脱出させる。脱出を成功させるため、CIAのチームは、「シックス プロダクション スタジオ」と「アルゴ」と名づけられた新作の映画企画を作り上げた。
1981年1月28日
ウィリアム・J・ケーシィ氏が中央情報長官に任命された。
1982年6月23日
レーガン大統領が、「情報身分保護法」に署名した。これにより、秘密活動に関係する情報職員の名前を公表することは禁止された。
1984年5月24日
CIAの新しい本部ビルの建設工事が始まった。レーガン大統領が起工式に参加した。
1985年
スパイの年であった。14人のアメリカ人がソ連とその同盟のためのスパイ活動で逮捕されるか、有罪となった。イスラエル、中国、ガーナのためのスパイも含まれた。その中には、ジョン・ウォーカー氏(彼のスパイ網はアメリカ海軍から貴重な秘密を盗み出した)、CIAのエドワード・リー・ハワード氏(FBIをごまかして逃亡した)、CIAのアルドリッヒ・アムス氏(1985年4月からKGBのために働き出した)、FBIのロバート・ハンセン氏(1985年10月にソ連のために志願した)らがいた。彼らのほとんどは逮捕され、後に有罪となった。
1985年11月1日
今は前大統領で、当時は副大統領であったジョージ・H・ブッシュ氏が、CIAの新しい本部ビルの定礎式で議長を務めた。
1985年11月2日
KGBの職員であったヴィタリー・ユルチェンコ氏がソ連に再亡命した。彼の最初のアメリカへの亡命の信憑性に関する議論を巻き起こした。
1986年2月2日
CIAがテロリズム対応センターを設置した。
1987年1月29日
ケーシィ中央情報長官が、公式にCIAを辞職した。イラン−コントラスキャンダルが大事件となり、辞任に追い込まれた。彼は、1987年5月に亡くなった。
1987年5月26日
ウィリアム・H・ウェブスター氏が中央情報長官に任命された。
1987年5月27日
任務の最中に生命を失ったCIA職員のための最初の追悼式典が始まった。以後、毎年、開催される。
1987年8月7日
ソ連は、CIAの職員であったエドワード・リー・ハワード氏の亡命を認めた。
1988年4月4日
CIAは敵の情報機関に対応するためのセンターを設置した。
1989年後半
CIAの古い本部ビルが拡張された新しい本部ビルが完成し、入居が始まった。
1990年5月初期
最初のCIAの、イラクのクウェートへの軍事侵略の可能性に関する報告がなされた。
1991年11月6日
ロバート・M・ゲイツ氏が中央情報長官に任命された。
1991年12月18日
ベルリンの壁記念建造物がCIA本部に奉納された。
1992年3月
CIAは、国防省との共同作戦のために、軍事問題オフィスを設置した。
1993年1月25日
アマル・カシ氏が、CIAの本部の正門の外でCIAの職員を襲撃した。二人の職員が亡くなり、三人が傷を負った。
1993年2月5日
R.ジェームス・ウールスィ氏が中央情報長官に任命された。
1994年2月21日
CIAの職員のアルドリッヒ・アメス氏がソ連へのスパイで逮捕された。
1995年5月10日
ジョン・M・ドウチ氏が中央情報長官に任命された。
1996年6月7日
CIAは記念庭園を本部に奉納した。
1996年9月23日
国家画像地図局法によりNIMA(アメリカ国家地球空間情報局)が設立された。CIAのNPIC(国家写真解析センター)や他の情報機関の部署や国防省が統合された。
1996年11月16日
CIAの職員のハロルド・ニコルソン氏がソ連へのスパイで逮捕された。
1997年6月15日
FBIとCIAの共同チームが、1993年にCIAの職員を襲撃したアマル・カシ氏を追跡し、パキスタンで彼は逮捕され、アメリカに引き渡された。後に彼は裁判にかけられ、有罪となった。2002年に死刑となった。
1997年7月11日
ジョージ・J・テネット氏が中央情報長官に任命された。
1999年4月28日
CIAの本部地区が、情報のためのジョージ・ブッシュ・センターと命名された。
1999年11月2日
CIAは、高度な分析技術を修得するための、上級分析サービス( Senior Analytic Service)を創設した。
2001年9月16日
テネット中央情報長官が「われわれは、戦争状態にある。」というメモを書いた。
2001年9月26日
CIAのジョーブレーカーチームがアフガニスタンに入る。四時間後、通信の準備が完了し、始動し出す。
2001年10月7日
忍耐強い自由作戦が始まる。
2004年5月24日
123号線(道路名メモリアル)が門の外で襲撃されたCIAの職員に捧げられる。
2004年9月24日
ポーター・J・ゴス氏が第19代で、最後の中央情報長官に任命された。
2004年12月17日
ブッシュ大統領が、情報改革とテロリズム防止法に署名する。中央情報長官の職と中央情報局副長官が廃止され、中央情報局長官が創設された。
2005年4月21日
ポーター・J・ゴス氏が最初の中央情報局長官に任命された。
2005年4月22日
国家情報長官オフィスが東部標準時間朝7時に始動を開始した。国家情報長官のジョン・ネグロポンテ氏が、その朝、大統領執務室で大統領への毎日の要約報告を行った。
2006年5月30日
アメリカ空軍のミカエル・V・ハイデン将軍が中央情報局長官に任命された。
2008年7月30日
ブッシュ大統領が、大統領行政命令12333の改正バージョンに署名した。その命令は、国家情報長官の目的と職責をおおまかに述べ、情報機関間の協力を強く強調した。また、それは、CIAの、人間による情報活動から海外での秘密行動分野まで、法的な権威とリーダーシップを確認した。
2009年2月13日
レオン・E・パネッテ氏が中央情報局長官に任命された。
2009年10月1日
CIA気候変動と国家セキュリティセンターが、終了した気候変動の国家セキュリティへの影響についての情報活動の主要な活動機関として創設された。活動範囲は、外国における気候変動の政治や経済、社会の安定への影響の分析も含む。センターは、情報局や科学技術局の専門家と協力し、特に、この重大な国家セキュリティ問題での協力の拡大を可能にした。
2009年12月30日
アフガニスタンの東南の地方の基地で、爆発物を装着したベストを身に着けた自爆テロリストが7人のCIA職員を殺害した。
2010年6月27日
アメリカでロシアのスパイが逮捕される。7月9日、彼らは、ロシアで拘束されていた四人のスパイと交換された。彼らは、西側の情報機関と接触したということで有罪となっていた。十人のスパイが、違法に外国のエージェントとして働くよう共謀した罪に抗弁し、釈放された。
2010年8月18日
レオン・パネッタ局長が、CIAの武器拡散防止センターの創設を発表した。センターは、現場や分析の専門家から構成され、危険な武器や技術の拡散と戦う。
2011年4月19日
CIAは、アメリカ政府の6本の古い機密文書を公開した。1917年から1918年に及ぶものであった。文書は、暗号文書のやり方、手紙を秘密に開封する技術、秘密にコミュニケーションをとるやり方などを記述していた。それらは、国家文書館に保管され、第一次世界大戦時の現存する唯一の機密文書であると信じられている。
2011年5月1日
バラク・オバマ大統領が、アルカイダの創設者であり指導者であり、最重要指名手配者であったウサマ・ビン・ラディン氏を、パキスタンのアボッタバッドでアメリカ軍の作戦の最中に、殺害したことを発表した。
2011年9月6日
ディビッド・ペトラウス将軍(アメリカ軍引退者)が中央情報局長官の宣誓をした。